「行う」をやりながら目的を見つける

何かを「やってみたい!」というのは、まず人の真似から始まるのだと思う。
幼い頃、親や兄弟の真似をしたみたいにだ。

たとえば、人が携帯電話を触るのは、誰かにメールをするためであったり、電話をするためであったりする。幼児はただ親がやっているのを真似することが楽しくて、メールや電話が出来ることも知らず、携帯電話を耳にあて「もしもし」と言う。

真似の段階では、その「やってみたい!」は、単なる事柄に過ぎない。その向こうに何か目的があるわけではない。
「目的をもって行う」というのは、単なる「行う」の次のステップで、「行う」をやっているからこそ目的を見つけることもよくある。

「目的」とは何か?
特に仕事においては、たいていの場合、「何かに影響を与える」というのが目的になるのではないだろうか。
人は何かに影響を与えたいと思って生きている。
隣人にでも、世界にでも日本にでも。何かに影響を与えたい。
でもそれはとても難しいし、恐れ多いことだってわかっている。だから何かを学びたい、作りたいと思う。影響を与えられる自分になるために、どうすればいいのかって考える。そうやって広がっていく。

わたしは、フリーランスのときも、会社を作った当初も、単に「行う」だった。仕事をすることが単純に楽しかった。技術が楽しかった。ひとつひとつできるようになることが楽しかった。
数年かけて「解決したい事柄」や「影響を与えたい事柄」が見えてきて、もわもわとしたものが固まってきて目的となった。企業が掲げる「経営理念」が綺麗事や理想論ではなく、本音なのだとわかった。

目的が先にあるのが当然、のような気がするけれども、そうでもないのではないか、それも悪くないのではないか。

棚橋さんの「学問・職能領域のリデザイン」という記事を読んでから、ずっと思っていたことを、眠れぬ夜に書いてみた。
「目的大学」に同じく共感。
さらに個人的には「目的大学院」のほうがしっくりくる感じだなーと。