議論についてあれこれ

意見を持った人と話すのは面白い

わたしは議論というか何と言うか、意見を持った人と話すのが好きだ。
考えが深まっていったり、新たな方向性が見えたりするのが面白い。
しかし互いの最初の立ち位置が漠然としていると、喧々諤々の議論をしていても、実は同じ意見を違う角度から話しているだけ、ということが往々にしてある。
議論の場にいる誰かが「あ、どうも同じこと話しているな」が気づいて、軌道を修正することになるが、場にモヤモヤが残ったりする。

本来ならその場合の議論は闘う感じではなく、もっと建設的で発展的で提案的なワクワク的な感じになるはずだから、もったいないと思う。
そんなときホワイトボードがあれば、図にできるから立ち位置がわかりやすくなる。わかりやすくなるだけでなく、「あなたの意見はおかしいのではないか?」という言い方が「この図は本当はこうではないか?」というふうに、矛先が少し柔らかくなるのもいい。

ホワイトボードはどう使うべきなのか

しかしホワイトボードがあまり効力を発揮しない場合もある。
最近、4人から6人くらいで何か例題について議論をするという時間を何度か持った。
大きなホワイトボードもあったし、ペンも黒・赤・青が各2本ずつあった。今から議論をするのだという認識も皆あった。参加者も優秀な人たちだったはず。素晴らしい環境だ、と思った。
わたしは一度立ち上がったが、すぐに座りなおした。立ち上がってペンを取る人が他にいないのだ。座ったまま、「どうしましょうねー」「どうでしょうねー」「うーん」と資料に目を落としている。

結局誰も動かないのでわたしがペンをとってホワイトボードに適当にいろいろ書いて話を進めた。他の人も意見はあるので、座ったまま身振り手振りで説明をする。だがペンを差し出してみても、持たないし立ち上がらない。
ホワイトボードに書くのがひとりだと、会話をリードすることになるから、議論がその人の能力に左右されてしまう。「あなたたちは、わたしにリードされていいのか?」とか、「字が汚くてすみませんー」とか、いろいろ思いつつ。

どうやったら彼らは立ち上がりペンを取ったのだろう。
今でもわからない。

ちなみにどっしり座って椅子に背もたれたまま、あーだこーだ言う人の意見は建設的ではないことが多い。ペンは持たないまでも立ち上がっていたり、半腰だったり、前のめりだったりする人の意見は良かった。

議論って何だ

日本には議論の文化がない。
誰かが意見を述べても、さらなる意見や反対意見は出難い。
意見を否定しているだけなのに、存在を否定された気になってしまう人もいると思う。
そもそも、議論はディベートと違って対立が前提ではないはずだ。
議論とは・・・

それぞれの考えを述べて論じあうこと。また、その内容。
ぎろん 1 【議論】の意味 国語辞典 – goo辞書

議論の文化がないことは、イコール日本人が「それぞれの考え」を持たないということではない。
ブログがひとつの救世主で、「意見を述べる」ことができる。コメント欄やトラックバックで意見を述べ合うこともできる。ブログの主に実際に会ったときに意見を深め合うこともできる。
はてブでは議論はできない。一方通行が前提だから。
twitterでも難しいだろう。短すぎて要点が伝えられないし、背景も共有しにくい。

議論について学びたくなってきた。
今の大学では議論について学べると思うが、学部によるのかな? どんな講義なのだろう?
欧米では議論の場において人の意見をさえぎるのは普通だと聞いたが本当なのだろうか?
ヨーロッパの古き名作小説を読むと、えんえんと議論をしている紳士たちがいるが、あれはまた別だよなあ。

とりあえず、Amazonから始めるとする。
 

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